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東京高等裁判所 平成8年(ネ)2379号 判決

平成八年(ネ)第二三七九号事件控訴人平成九年(ネ)第四一七号、第二七八八号事件附帯被控訴人(以下「控訴人」という。)

東史郎

右訴訟代理人弁護士

中北龍太郎

丹羽雅雄

空野佳弘

加島宏

平成八年(ネ)第二三七九号事件控訴人平成九年(ネ)第四一七号事件附帯被控訴人

(以下「控訴人」という。)

下里正樹

右訴訟代理人弁護士

椎名麻紗枝

右訴訟復代理人弁護士

富田真美

平成八年(ネ)第二四〇七号事件控訴人平成九年(ネ)第四一七号、第二七八八号事件附帯被控訴人(以下「控訴人」という。)

株式会社青木書店

右代表者代表取締役

青木理人

右訴訟代理人弁護士

美作治夫

平成八年(ネ)第二三七九号、第二四〇七号事件被控訴人平成九年(ネ)第四一七号、第二七八八号事件附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

甲本一郎

右訴訟代理人弁護士

髙池勝彦

三堀清

主文

一  本件各控訴をいずれも棄却する。

二  本件各附帯控訴(当審における請求を含む。)をいずれも棄却する。

三  原判決主文第一項は、請求の減縮により次のとおり変更された。

控訴人らは、被控訴人に対し、各自金五〇万円及びこれに対する平成五年五月一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

四  平成八年(ネ)第二三七九号事件控訴費用は控訴人東史郎及び同下里正樹の、同第二四〇七号事件控訴費用は控訴人株式会社青木書店の、各附帯控訴費用はいずれも被控訴人の各負担とする。

事実及び理由

第一  申立て

一  平成八年(ネ)第二三七九号、第二四〇七号事件控訴の趣旨

1  原判決中、控訴人ら敗訴部分を取り消す。

2  被控訴人の請求をいずれも棄却する。

二  平成九年(ネ)第四一七号事件附帯控訴の趣旨

1  原判決中、被控訴人敗訴部分を取り消す。

2  控訴人らは、被控訴人に対し、別紙一記載1の謝罪広告を、同記載3の方法で、株式会社中日新聞社発行の中日新聞に一回掲載せよ。

3  控訴人らは、被控訴人に対し、各自金一五〇万円及びこれに対する平成五年五月一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  平成九年(ネ)第二七八八号事件附帯控訴(当審における訴えの追加的変更)の趣旨

1  控訴人東史郎及び同株式会社青木書店は、被控訴人に対し、別紙一記載2の謝罪広告を、同記載3の方法で、株式会社中日新聞社発行の中日新聞に一回掲載せよ。

2  控訴人東史郎及び同株式会社青木書店は、被控訴人に対し、各自金二〇〇万円及びこれに対する平成九年六月二五日(附帯控訴状送達翌日)から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  控訴人株式会社青木書店は、その平成八年一〇月二五日発行の書籍「わが南京プラトーン【新装版】」を販売してはならず、既に配送済みの同書籍を書店より回収せよ。

4  2項につき仮執行宣言

第二  事案の概要

一  本件は、被控訴人が、控訴人らが執筆、編集、発行等した書籍等の記述により社会的評価、信用を害され、精神的損害を被ったとして、不法行為による損害賠償請求権及び差止請求権(当審新請求分のみ)に基づき、慰謝料(原審請求分及び当審新請求分各二〇〇万円)の支払及び謝罪広告の掲載並びに書籍の販売禁止及び回収(当審新請求分のみ)を求めた事案であり、原審では、慰謝料五〇万円の支払のみ認容され、その余は棄却された。

二  争いのない事実(他の当事者間で争いがないなどで、弁論の全趣旨から容易に認められる事実を含む。)

1  控訴人東は、陸軍第十六師団歩兵第二十聯隊(福知山聯隊)第一大隊第三中隊(以下「第三中隊」という。)所属の経歴を有し、昭和六二年ころ、自己の戦時中の日記としてまとめて記載してあった『東日記』に基づき、別紙二記載1の記述(以下「記述1」という。)を含む「わが南京プラトーン」と題する書籍(副題・一召集兵の体験した南京大虐殺。以下「書籍1」という。)を執筆し、出版社である控訴人青木書店は、同年一二月八日、同書籍を発行した。

2  控訴人下里は、昭和六二年ころ、『東日記』から引用した別紙二記載2の記述(以下「記述2」という。)を含む「隠された聯隊史」と題する書籍(副題・「20ⅰ(歩兵第二十聯隊)」下級兵士の見た南京事件の実相。以下「書籍2」という。)を執筆(ただし、その前に日本共産党中央機関誌である「赤旗」に連載したものに加筆訂正したもの)し、控訴人青木書店は、同年十二月八日、同書籍を発売した。

3  控訴人下里は、平成元年ころ、井口和起及び木坂順一郎とともに、原判決別紙二記載3の記述(以下「記述3」といい、記述1ないし3を併せて「本件各記述」という。)のある『東日記』を含む、日中戦争に従軍し南京攻略戦に参加した元兵士達の記録を中心に九点の日記・手記・メモ・文書類を翻刻・収録した「南京事件・京都師団関係資料集」と題する書籍(以下「書籍3」という。)を編集し、控訴人青木書店は、同年一二月一五日、同書籍を発行した。

4  控訴人東は、控訴人下里に対し、『東日記』等の関連資料を貸し渡して、記述2及び3についての情報を提供し、控訴人下里は、これに基づき書籍2及び3を執筆及び編集した。

5  控訴人東は、平成四年一二月ころ、京都府での市民集会において戦争体験に関する講演を行ったところ、株式会社中日新聞社発行の同月二〇日付け日刊中日新聞に、控訴人東の右講演内容の紹介として、別紙二記載4の記述(以下「記述4」という。)を含む「南京大虐殺55年後の告白」と題する記事(以下「本件記事」という。)が掲載された。

6  控訴人青木書店は、平成八年一〇月二五日、書籍1の「新装版」と銘打って装丁を新たにして「わが南京プラトーン【新装版】」と題する書籍(副題・一召集兵の体験した南京大虐殺。以下「書籍4」という。)を発行したところ、これにも書籍1と同一頁に同書籍と全く同じ記述1が記載されている(当審新請求分)。

7  本件各記述は、いずれも、昭和一二年一二月ころ、控訴人東が所属していた第三中隊(記述4では福知山聯隊)の兵士についてされ、兵士の名について記述1には「西本」と、記述2及び3には「甲本」と記載されているほか、書籍3の『東日記』中には、「或る日、甲本分隊長と竜野一等兵がぶらりと宿舎へ帰へって来た。」(二一七頁下段)、「第二小隊長は甲本伍長がとる事になった。」(二八三頁下段)及び「甲本分隊長は二十三才の現役下士伍長である。」(二八五頁下段)と記載されている。

8  被控訴人は、大正四年一一月二三日生れで、昭和一二年一二月ころ、第三中隊(森英生中隊長)に所属し、伍長であった。当時、第三中隊には、被控訴人を含めて「甲本」姓の者が五名いた。また、当時、控訴人東も、第三中隊に所属し、上等兵であった。

第三中隊は、南京攻略戦に参加し、昭和一二年一二月一三日南京城内に入城し、その後、同城内外の掃討戦に参加した。

三  争点及び当事者の主張

1  書籍1ないし4中の本件各記述及び本件記事中の記述4が被控訴人についてされたものとして、その社会的評価、信用を害するか。

(一) 被控訴人

書籍1ないし4中の本件各記述及び本件記事中の記述4は、いずれも被控訴人についてなされたもので、その社会的評価、信用を害する。

書籍1ないし3は、同じ筆者、編集者、出版社によるもので、その性格、販売広告の方法等から、読者が併せて読むことを想定して出版されたものと認められ、書籍1及び2を読んで歴史資料とする意欲を持つならば、必然的に書籍3の該当部分を読破して前後の状況を確かめようとするであろうから、書籍3で行為者が特定できれば、当然書籍1及び2の行為者も推定できることになる。したがって、記述1及び2についても、記述3と同様に、被控訴人についてされたものであることが容易に確定できるから、名誉毀損の対象となる。

記述4は、書籍3発行後に、これに係る『東日記』の著者として行った講演内容であり、書籍3を読んだ者は、誰もが被控訴人の行為を指していると考えるから、名誉毀損の対象となる。

書籍3の発行後で原判決後にされた書籍4の発行は、被控訴人東及び同青木書店による被控訴人に対する新たな名誉毀損である。すなわち、書籍4は書籍1とは別個の書籍であり、記述1の価値は、原判決後全く異なり、「西本」という仮名を使用していても、これが被控訴人を指すことがマスコミその他の情報によって一般に周知の事実となっている。

(二) 控訴人ら(一部の控訴人のみの主張を含む。)

記述1は、「西本」という兵士の行為について記載されているもので、書籍1及び4中には、他に「西本」という兵士を特定できる階級や所属については記載がなく、被控訴人を指すことを推知させる記載は何もない。

記述2には、「甲本」と記載されているだけで、書籍2中には、「甲本」が被控訴人を指すことを推知させる記載は何もない。

書籍3の『東日記』中の「甲本伍長」及び「甲本分隊長」並びに記述3の「甲本」の三者が同一であることは、記載の位置関係からは、読者が判断することはできない。また、記述3の「甲本」と被控訴人が同一人物であるかどうかも、昭和一二年一二月当時第三中隊に「甲本」姓の者が五名おり、読者にとって判断することができない。

記述4には、残虐行為が述べられているのみで、行為を行った兵士について特定し得るような記載は何もない。

本件各記述の内容は、捕虜や占領地の文民に対する待遇についての教育も受けていない当時の日本軍兵士が敗残兵の掃討の際に殺人行為を行ったというにすぎず、その行為者の社会的評価を低下させるものではない。

したがって、いずれにせよ、本件各記述及び記述4は、被控訴人の社会的評価、信用を害するものではない。

2  右1に該当する記述が公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的に出たものか。

(一) 控訴人ら

本件各記述は、南京事件(日中戦争中、日本軍が南京を占領した昭和一二年一二月ころ、南京城及びその周辺で起こったとされる日本軍兵士による中国人(非戦闘員を含む。)の殺戮事件をいう。以下、同じ。)を扱うもので、公共の利害に関する事実を対象とする。

そして、控訴人らは、本件各記述を含む書籍1ないし4を、専ら南京事件の真相(と責任の所在)を明らかにし、又は、そのための資料を提供するという公益を図る目的のために執筆、編集、発行等したものである。

(二) 被控訴人

本件各記述は、南京事件の実相とは程遠く、公共の利害に関する事項についての記載といえず、控訴人らに、本件各記述の著述、公表等について公益を図る目的があったとはいえない。

また、記述2及び3は、被控訴人を実名のまま記載しており、人権に対する配慮が欠けていることからも、公共の利害に関せず、公益目的に反する。

3  前記1に該当する記述により摘示された事実が真相であるか(以下、本件各記述に記載された昭和一二年一二月二一日の出来事、甲本(西本)のした行為を「本件事件」、「本件行為」という。)。

(一) 控訴人東

以下のとおり、本件各記述の内容は、真実である。

(1) 本件各記述の基となった『東日記』(第一巻ないし第五巻からなるが、本件事件部分は、第二巻の中にある。)は、控訴人東が昭和一二年八月に召集されてから同一四年一一月に病院船で帰国するまでの間にしたためた陣中メモと記憶を基に、体験した事実を自らの記録に留めておくために同一五年から二回目の出征の同一九年三月までの間に書いた(本件事件部分は、同一六年ころ書いた。)ものであり、特に、日本の敗戦まではこのような日記を書いていることが官憲に発覚すれば重大な制裁を覚悟しなければならなかったもので、虚偽を書いてそのような危険を冒す者はおらず、『東日記』に虚偽を記述する動機、目的は全く考えられない。

『東日記』の隊の行動の記載内容は、控訴人東の兵籍履歴に記載された隊の行動とも一致しており、『東日記』の正確度が高いことを物語っている。また、『東日記』の南京攻略戦、掃討戦の記述は、その過程で発生した南京事件という歴史的事実、客観的情況と符合しており、真実を記述している。当時、日本軍兵士は、生きた中国人にガソリンをかけて火を付ける残虐行為を行い、中国人を沼に放り込んで殺害し、また、手榴弾で中国人を虐殺することなども行っていたのであり、本件事件もその一つである。

(2) 本件事件当時、最高法院の正面玄関前には、道路(中山北路)を挟んで、その向かい側に、道路際すぐ近くに沼(最高法院側が岸辺から急勾配に切れ込んだ深い池)が存在していた(最高法院の門と沼の距離は四十数メートルにすぎない。)。また、人が入れるだけの郵便袋ないしこれに類する袋(外国郵便用行のう等)は、日本及び中国がそれぞれ使用していたもので、本件事件当時、確かに存在していた。さらに、当時、南京城内には壊れた自動車が放置されていたし、日本軍兵士は、中国側使用の手榴弾を持ち歩いていた。以上のとおり、本件各記述は、いずれも当時の客観的情況と合致していることからも、本件各記述の真実性は証明されている。

なお、被控訴人が主張する『中澤日記』は、その筆者とされる中澤終一が作成したものとは考えられず、これを第三中隊所属の被控訴人らの現場不在証明に使用することはできない。

(3) 本件各記述には、矛盾はなく、迫真性があり、その内容も自然であって、十分信用することができる。

本件各記述からは、手榴弾を袋の紐に結び付け、沼の中に袋を放り込んだ際、袋の火が燃え上がっていたと認定することはできず、むしろ、下火になっていた可能性がある。また、仮に、燃え上がっていたとしても、結び付け行為をしていた位置との間に距離があれば、結び付けている者が火傷を負う心配はないし、手榴弾は、外側が鋳鉄で覆われ、内包されている火導薬に点火しない限り、火の近くであっても、紐に手榴弾を結び付ける程度の時間では爆発するものではない。そして、手榴弾(中国製柄付手榴弾。点火後、五秒で炸裂する。)を点火(瞬時にできる。)し袋を沼に放り込む行為は、一秒程度ででき、その後、放り込んだ位置から沼と反対の方向に逃げる(手榴弾の被弾を避けるためには二メートルで足りる。)ことができる時間は四秒程度あるから、容易に被弾範囲外に脱することができ、何ら危険ではない(少し後ずさりさえすれば、被弾の危険はない。)。したがって、本件行為は、十分実行可能である。

控訴人東側でした実験からも、本件各記述の真実性が裏付けられるし、控訴人東は、記憶確認、喚起のために、現場調査をし、これに基づき、当審において、具体的かつ明確な供述をしていることから、控訴人東の供述は、優に信用でき、これに符合する本件各記述は真実である。

(二) 被控訴人

以下のとおり、本件各記述の内容は、全くの虚偽である。

(1) 本件各記述の基となった『東日記』は、控訴人東が内地帰還後一年以上、事件発生後三年以上経った昭和一六年ころになって、簡単なそれも後日の回想メモ(本件各記述に関する陣中メモは存在しない。)を基に数倍に膨らませて記した手記、回想記、従軍記の類で、歴史的資料として通用せず、信用できない。

(2) 本件各記述の内容は、①戦時下では厳重に管理されている郵便袋が道端に落ちていたとされていること、②大人を入れられる程大きくない郵便袋に大人の中国人を入れたとされていること、③ポンプ、バケツ等を携帯していない兵士が自動車からガソリンを抜いて中国人にかけたとされていること、④瞬時に燃えるガソリンが長時間持続的に燃えていたとされること、⑤ガソリンにより燃え、人の入った郵便袋を耐火耐熱服なしに運搬して沼に投げ込んだとされていること、⑥長時間燃焼しているにもかかわらず郵便袋や紐が焼失し、中の人間が出てきたとされていないこと、⑦燃焼中の郵便袋に手榴弾を結び付けるという危険極まりない行為を行ったとされること、⑧手榴弾は四、五秒程度で破裂するのに、これを三個郵便袋の紐に結び付け、郵便袋を沼に投げ込んだとされていることなど客観的に不自然であり、本件行為は、科学的、物理的に実行不可能である。第一現場の最高法院前でガソリンをかけられ、火を付けられ、跳びはね転がり回ったおよそ重量六〇キログラムはあると思われる人間袋を、火の消えぬよう、袋や紐が焼け切れぬよう、耐火耐熱服を着ていない人間が第二現場である数十メートルないし百メートル先(中山北路は、幅員四〇メートル以上ある。)の沼まで運搬することは、通常考えられる方法では不可能である。また、紐に手榴弾を結び付けることができたとして、それを三発発火させるのに二秒、爆発が起こるまでを二秒としても、正味二、三秒以内で燃焼中の人間袋を沼の中(少なくとも、岸から数メートル離れた場所)に投げ込むことも、不可能である。

このような通常常識的には不可能な行為、離れ業は、首尾よく成功したとすれば、見物人一同に強い印象を与え記憶を残さずにはおかないはずであるのに、直近で見たはずの控訴人東が『東日記』に記された以外に全く記憶がないという理由で、何ら具体的説明ができない(原審主張、供述)というのは、著しく不自然であり、本件事件が控訴人東によって創作された実在しなかった事件であることを示している。

控訴人東側でした実験は、本件行為と異なる条件下のもので、本件行為が普通で可能なことを証明しておらず、本件行為の証明になっていない。

控訴人東の供述も、原審では右のとおり何ら具体的説明ができなかったのに、当審では記憶が鮮明に蘇ったというのも、不自然、非合理的であり、その沼の位置、自動車の位置、郵便袋等の主張が二転、三転していることと相まって、到底信用できない。

(3) 『中澤日記』は、第三中隊の陣中日記といえるほど確度の高いものであるところ、この本件事件当日の第三中隊の行動の記載からは、第三中隊所属の被控訴人らが最高法院の前にいたはずがなく、したがって、本件行為が虚偽であることが証明される。

4  右3が認められないとして、控訴人下里及び同青木書店(以下「控訴人下里ら」という。)において、前記1に該当する記述の内容を真実と信ずるについて相当の理由があるか。

(一) 控訴人下里ら

本件各記述は、右3(一)のとおり真実であると認められるが、仮に、真実であると認められないとしても、以下の事情の下では、控訴人下里らにおいてこれを真実と信ずべき相当な理由があった。

(1) 本件各記述は、控訴人東が第三中隊に所属していた際に見聞した事実を書き留めたメモ類に基づいて、昭和一五、六年ころに作成した『東日記』を出典とする。

控訴人下里及び同青木書店担当者桜井香は、それぞれ、控訴人東宅において、『東日記』の原本及び右メモ類を確認した。右メモ類は、大学ノート、便箋の束、事務用箋等形状の異なる八つの束であり、束の中にはメモ紙片が多く挟み込まれ、事務用箋の中に便箋のメモ書きが混在し、地図や中国軍の宣伝ビラ等が折り込まれ、街路に張り出された檄文、宣伝ポスター等が丹念に筆写されているなど、戦場から持ち帰った原資料であるとの印象を強く与えるものであり、その内容も、一日の戦闘状況を詳述したものや、戦闘中の心理状況を細やかに書き留めたものなど極めて写実的であった。

(2) 控訴人下里は、『東日記』の一部が昭和五七年二月一七日に刊行された「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」に掲載され、第三中隊関係者に対してその内容が明らかにされていることを確認した。

(3) 控訴人下里は、『東日記』以外の下級兵士の陣中日記の中にも、南京攻略戦、掃討戦の過程で、敗残兵の虐殺、虐殺死体及び多数の捕虜の連行の目撃談が多数記載されていることを確認した。

(4) 桜井は、『東日記』の記載の一部が中島今朝吾第十六師団長作成の『中島第十六師団長日記』と呼ばれる陣中日記の記載と一致していること及び従前の取材により入手していた南京事件当時の同地の写真と内容的に整合することを確認し、南京事件研究の第一人者である元大学教授にも『東日記』の資料価値について意見を聞いて肯定的な回答を得ていた。

(5) 桜井は、郵政省所轄の資料室において調査し、本件各記述にみられる郵便袋が大人を入れられる程度の大きさであることを確認した。

(二) 被控訴人

以下の事情の下では、控訴人下里らにおいて本件各記述を真実と信ずべき相当な理由があったとはいえない。

(1) 控訴人東が南京攻略戦、掃討戦当時記載したメモは存在せず、南京攻略戦について控訴人東が記載したもので最も古いものは、一年後の昭和一三年一二月ころ便箋に記載された回想録であり、『東日記』の南京攻略戦、掃討戦当時の部分は、右回想録等を更に数倍に膨らませて記述した文章で、創作性が強く、戦場で記載された第一次的資料とはいえない。

(2) 控訴人下里らは、第三中隊の控訴人東以外の生存兵士に対し、本件各記述に関する事実確認を行っていない。

「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」に掲載された『東日記』の一部は、本件各記述を含んでおらず、第三中隊関係者以外の者への「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」の寄贈に際しては、『東日記』に誤りが多い旨の森英生元第三中隊長による注意書きが添付された。また、多くの生存兵士や歴史家が『東日記』に矛盾点が多いことを指摘していた。

(3) 前記3(二)(2)のとおり、本件各記述の内容は、客観的に不自然である。

5  控訴人東が供述1を除く前記1に該当する記述について責任を負うか。

(一) 被控訴人

控訴人東は、控訴人下里と密接に接触しており、同控訴人に提供した情報を同控訴人が何らかの形で公表するであろうことは認識、予測していたから、同控訴人が執筆及び編集した記述2及び3について、不法行為責任を負う。

(二) 控訴人東

控訴人東は、書籍2中の記述2の部分の掲載について、控訴人下里らに承諾を与えたことはなく、右の掲載がされるとの認識も予測もなかった。また、書籍3について、実名で掲載するとは知らされていなかったし、これに記述3の記載がされるとの認識も予測もなかった。したがって、記述2及び3について責任を負わない。

控訴人東は、講演での発言を中日新聞に掲載されることについて全く予期せず、無断で掲載されたものであり、記述4に係る本件記事について責任を負わない。

6  控訴人青木書店が前記1に該当する記述に係る書籍の発売、発行について責任を負うか。

(一) 被控訴人

控訴人青木書店は、被控訴人が本件各記述に係る行為を行ったとの認識の下に本件各記述のある書籍1ないし4を発売、発行したのであるから、故意があり、仮に、右認識がなければ、過失があり、不法行為責任を負う。

(二) 控訴人青木書店

控訴人青木書店は、書籍2については企画と発売を、書籍3については発行(内容にわたらず、レイアウト、構成、その他総合アレンジメントのみを行う機械的編集及び発売を行うこと)を担当しただけであり、書籍2及び3の内容について判断する権限を一切有していなかったから、責任を負わない。

7  損害額並びに名誉回復処分及び差止請求の要否

(被控訴人)

被控訴人が被った損害を回復するには、慰謝料として書籍1ないし3及び同4についてそれぞれ二〇〇万円が相当であり、かつ、中日新聞に謝罪広告を掲載する必要がある。根拠のない誹謗による名誉を回復し、歴史を正すために、右慰謝料額及び謝罪広告が必要である。

また、書籍4について、直ちに販売の中止及び既に配送済み分の回収をする必要がある。

第三  当裁判所の判断

一  争点1(各記述の名誉毀損該当性)について

1  書籍1ないし3に係る本件各記述について

(一) 本件各記述は、日本軍兵士である「西本」(記述1)、「甲本」(記述2及び3)が中国人を殊更に残虐な方法で殺戮したことを内容とするもので、本件行為者である「西本」、「甲本」の社会的評価を低下させる内容のものであることが明らかである。

これに対し、控訴人らは、日本軍兵士が敗残兵の掃討の際に殺人行為を行ったというにすぎず、その行為者の社会的評価を低下させないと主張するが、本件行為は、本件各記述において、戦闘行為、敗残兵の掃討のための行為として記載されてはおらず、戦場での遊びとして記載され、本件行為に全く加わらずに間近で傍観している日本軍兵士である執筆者(書籍1)ないし原典執筆者(書籍2及び3)自身が心ある者として、眉をひそめて、本件行為を残酷な処置として見守り、あるいは、行為者の残忍性にあきれただけであると述べているのであるから、右主張は失当である。

(二) そこで、次に、右「西本」、「甲本」が被控訴人を指すものとして、本件各記述が被控訴人の名誉を毀損するものであるか否かについて検討する。

出版物(書籍)の表現により人の社会的評価が低下させられたかどうかは、一般の読者の通常の注意と読み方を基準として、当該表現が特定人の社会的評価を低下させるものと認められるかどうかにより判断すべきであるから、本件においては、本件各記述の「西本」、「甲本」が被控訴人と同一人物であり、被控訴人が本件各記述に記載された行為をしたと理解されるかどうかによって決定すべきであるところ、証拠(認定事実の冒頭にかっこ書きしたもの)によれば、次の事実が認められる。

(1) (甲五、一二の二、被控訴人(原審))

被控訴人は、大正四年一一月二三日京都府に生まれ、昭和一〇年一二月一日福知山聯隊に歩兵二等兵として入営し、同一一年六月一日歩兵一等兵、同年一一月一一日歩兵上等兵と進級し、同年一二月陸軍教導学校に入校して下士官教育を受けた後、同一二年八月動員下令を受けて、同聯隊第三中隊に復帰し、同年九月第三中隊第三小隊第一分隊長となり、同一二年一〇月一日伍長に任ぜられ、同年一二月南京攻略戦(同月九日から同月一三日まで)、同市内外掃討戦(同日から同月二三日まで)に参加した。被控訴人は、同一三年一月南京を発ち、大連に上陸した際、第三中隊指揮班に移り、同年四月一日歩兵軍曹となった。

(2) (乙四六、五七の二、控訴人東(原審))

控訴人東は、明治四五年四月二七日京都府に生まれ、昭和八年一月三一日第三中隊に歩兵二等兵として入営し、同年八月二日歩兵一等兵、同九年一一月三〇日歩兵上等兵と進級して現役満期を迎えた後、同一二年九月一日召集を受けて(同年八月二六日召集令状受領)、第三中隊に編入され、第三中隊第三小隊第一分隊に所属し、同年一二月右南京攻略戦、同市内外掃討戦に参加した際も、右分隊に所属していた。

(3) (乙一の四、二〇の一、丁一) 第三中隊には、昭和一二、三年ころ、被控訴人、甲本純二(上等兵、第一小隊第五分隊所属)、甲本道夫(一等兵又は二等兵、第一小隊第五分隊所属)、甲本喜代雄又は喜代男(上等兵、第二小隊第一分隊所属)及び甲本友吉(上等兵、第一小隊第二分隊所属)の五名の甲本姓の者が所属していた(ただし、括弧内記載の階級及び所属は、同一三年七月三一日当時のものである。)。なお、当時の第三中隊の総員は、二二一名であり、中隊は、指揮斑のほか、第一小隊ないし第三小隊によって編成され、各小隊は、更に六つの分隊(隊員は一〇名前後)に分かれていた。

前記争いのない事実及び右認定事実によると、記述3の対象とされた昭和一二年一二月当時、被控訴人は、数え年で二三歳、階級は伍長、第三中隊第三小隊第一分隊の分隊長であり、控訴人東も、同じ第一分隊に所属しており、第三中隊の中で甲本姓の伍長は一名であって、前記争いのない事実7に摘示した書籍3の記載を併せ読むと、記述3における「甲本」は、一般の読者の通常の注意と読み方を基準としても、被控訴人を指し、被控訴人が記述3に記載された内容の殺人を犯したと理解され、これにより被控訴人の名誉は毀損されたと認められる。

これに対し、控訴人らは、書籍3の『東日記』中の「甲本伍長」及び「甲本分隊長」並びに記述3の「甲本」の三者の同一性は記載の位置関係に照らし第三者にとって判断できず、昭和一二年一二月当時、第三中隊には「甲本」という者が五名おり、記述3の「甲本」と被控訴人との同一性も判断することはできなかったと主張するが、右のとおり、第三中隊の甲本姓の分隊長で、伍長であった者は一名であり、一般の読者の読み方を基準としても、右三者は同一人物について記載されていると理解されると認められるから、右主張は失当である。

(三) しかしながら、記述1及び2については、そこに記載された「西本」、「甲本」が被控訴人を指し、被控訴人が本件行為をしたと理解されると認めることはできない。

すなわち、記述1においては、本件行為者は「西本」と記載されており、また、書籍1(乙五八の一七九頁)には、昭和一三年四月五日のこととして、「西本伍長」の行為が記載され、さらに、「西本は、……いつもながら残忍な男である。」と記載されているが、記載位置がかなり離れていて、記述1に係る「西本」と同日の「西本」とが直ちに同一人物であると断定できるような記載とはなっておらず、他に記述1に係る「西本」の階級、所属、年齢等同人を特定するに足りる記載はなく、控訴人東も、書籍1において、「戦友遺族への配慮から、一部兵士を仮名とした。」としており(乙五八の三頁)、「西本」と被控訴人の姓とは一字を共通にするものの、なお、一般の読者の通常の注意と読み方を基準にするときは、記述1に係る「西本」が被控訴人を指し、被控訴人が記述1に係る殺人行為をしたと理解されると認めることはできない。

また、記述2においては、本件行為者は「甲本」と記載されているが、書籍2(丙二)には、他に右「甲本」の階級、所属、年齢等同人を特定するに足りる記載は全くないから、右「甲本」と被控訴人の姓が一致することを考慮しても、なお、一般の読者の通常の注意と読み方を基準にするときは、右「甲本」が被控訴人を指し、被控訴人が記述2に係る殺人行為をしたと理解されると認めることはできない。

もっとも、書籍1又は2に書籍3を併せて読めば、記述された行為が同一であることから、記述1の「西本」、記述2の「甲本」と、記述3の「甲本」とが同一人物と理解され、したがって、記述1の「西本」、記述2の「甲本」が被控訴人を指すことが判明し得るが、これはあくまでも書籍3を読むことによって初めて判明するものであるところ、名誉毀損の成否は、出版された書籍ごとに判断されるべきものであり、ある出版物の出版によって他の出版物の執筆、発行等が名誉毀損に当たるとされるものではないから、記述1及び2については、被控訴人の名誉を毀損するものということはできない。

2  本件記事に係る記述4について

記述4は、福知山聯隊の兵士が中国人を殴り、殺人行為をしたことを内容とし、同聯隊に所属していた兵士一般の社会的評価を低下させ得るものとはいえるが、特定の兵士の行為を対象とするものでなく、本件記事には、他に右行為を行った兵士について特定し得るような記載は全くない(甲四、乙二二)から、記述4について、被控訴人の名誉毀損を論じる余地はない。

被控訴人は、記述4についても、書籍3を読めば被控訴人に行為を指していることが分かるから、名誉毀損の対象となると主張するが、右1(三)に述べたとおり、名誉毀損の対象となるのは書籍3の記述3であるから、右主張は失当である。

3  書籍4について

書籍4(丁一四)は、「新装版」と銘打っており、書籍1(乙五八)と装丁(書籍の外装)が多少異なっているが、内容的には全く同じものであり、別個の書籍というものではないから、記述1について被控訴人の名誉を毀損するものということができない以上、書籍4の発行について、不法行為は成立しないといわざるを得ない。

被控訴人は、記述1の「西本」が被控訴人を指すことは原判決後マスコミその他の情報によって一般に周知の事実となったので、書籍4の発行は被控訴人に対する新たな名誉毀損であると主張するが、書籍4は右の述べたとおりのもので、記述1の「西本」が被控訴人を指すことは、本訴の過程で判明したもので、書籍4の発行とは何らかかわらないから、右主張を採用することはできない。

4  以上のとおり、書籍1の記述1、書籍2の記述2、本件記事の記述4及び書籍4の記述1については、その余の点について判断するまでもなく、不法行為が成立しないから、以下には、書籍3の記述3についてのみ、不法行為の成否を検討する。

二  争点2(公共性、公益性)について

民事上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的に出た場合において、争点3の真実性又は争点4の相当性が認められる場合には、違法性を欠くか、又は、故意若しくは過失を欠くものとして、名誉毀損たる不法行為が成立しないものと解すべきであるところ、記述3に係る本件事件は、日本軍による南京攻略戦、掃討戦の過程で行われた日本軍兵士による中国人の殺害行為を内容とするものであるから、これが真実であるとすれば、南京事件の一事例といい得るものであり、公共の利害に関する事実に当たるということができる。

そして、控訴人下里らにおいて、記述3を含む書籍3を南京事件を扱う歴史的資料として編集又は発行したものと認めることができ(丁三)、記述3に係る本件事件についても、南京事件の一事例として取り上げられたといえるから、その編集及び発行が一応公益を図る目的の下にされたものと認めることができる(もっとも、記述3について、果して行為者が特定できるような実名を使用する必要性、相当性があったか否かについては、本件行為があったとされた時から既に五〇年も経過していること、本件行為が戦闘行為や敗残兵の掃討のための行為でなく、下級兵士の殺人遊びとして記述されていることなどに照らすと、問題があり得ることが指摘できる。)。

三  争点3(真実性)について

名誉毀損の対象とされた行為について争点2の公共性、公益性が認められる場合に、摘示された事実が主要な点において真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないと解されるので、右真実性について判断するに、記述3の内容は、以下に述べる理由により、主要な点において真実と認めることはできない。

1  『東日記』について

(一) 記述3は、『東日記』に基づくものであるところ、『東日記』は、控訴人東が召集令状を受け取った昭和一二年八月二六日から同年一一月一三日までの第一巻(乙四、一〇八)、同月一五日から同一三年一月二八日までの第二巻(乙五の1ないし五、一〇九)、同月三一日から同年四月二一日までの第三巻(乙六の一ないし三、一一〇)、同日から同年八月七日までの第四巻(乙七、一一一)及び同月八日から同年一〇月までの第五巻(乙八、一一二)の五冊の日記帳からなり、書籍3(丁三)は、第一巻及び第二巻を一部を除いて翻刻・収録し、記述3は、第二巻の中にある。控訴人東は、昭和一二年九月に召集を受けて第三中隊へ編入され、日中戦争に従軍し、同一四年七月に復員下令を受けたが、そのころマラリアに罹患して陸軍病院に入院し、同年九月病院船で帰国して国内の陸軍病院で治療を受け、同年一一月に治癒退院し、召集解除されたものの、同一九年三月に再度召集を受けた(乙五七の二)ところ、控訴人東は、右当初の召集の出発から帰国までの間にしたためた陣中メモと記憶を基に、右帰国後の同一五年から再度出征した同一九年三月までの間に、『東日記』第一巻ないし第五巻を書いたもので、記述3に係る第二巻は同一六年ころ書いたと主張し、供述(原審)する。

(二) 『東日記』の書かれた五冊の日記帳が昭和一五年一二月一五日発行(楽久我記帳。第一巻及び第二巻)又は同一六年一一月五日発行(随想帳。第三巻ないし第五巻)のものであること(乙七、一〇八ないし一一二)に照らすと、『東日記』は、同一五年末以降に書かれたもので(すべてが戦前に書かれたわけではなく、一部については戦後加筆された可能性もあることについては後述のとおりである。)、第二巻は同一六年又はそれ以降に書かれたものと認められるが、『東日記』の基となったという右陣中メモなるものは、同一三年四月六日ころから同年五月二九日ころまでの間に便箋類に記載したとするメモ綴り(乙一七、一一八。乙一七によれば、「葉家集―白七市」と題されている。)、同年八月一日から同年一〇月までの間に雑記帳に記載したとする日記帳(乙九の一ないし五、一一三)、同月一九日から同一四年一月八日までの間に便箋類に記載したとする「葉家集―白七市」と題するメモ綴り(乙一六の一ないし三、一一四)、同月一〇日から同年三月末ころまでの間に帳面に記載したとする日記帳(乙一一の一・二、一一五)、同年四月二六日から同年七月二八日までの間に便箋類に記載したとする「盛家灘―壊東会戦―凱旋」と題するメモ綴り(乙一一六)、同月三〇日から同年九月一九日までの間に大学ノートに記載したとする日記帳(乙一〇の一・二、一一七)が存するものの、同一三年三月以前のもの、すなわち、『東日記』第一巻から第三巻途中までの時期に係るもの(南京攻略戦、掃討戦についての記述が含まれている。)は全く存在しない。

(三) この点について、控訴人東は、昭和六二年七月ころ、「平和のための京都の戦争展」(以下「京都の戦争展」という。)に資料として貸し出した際に紛失したかのような供述(原審)をするが、その供述自体極めてあいまい、不明瞭なものであり、他に右資料が紛失したことをうかがわせる証拠は全く存在しない(原資料というべき貴重な陣中メモが関係者によって紛失されることは、到底考えられない。京都の戦争展の実行委員会の代表者によれば、当初から、右の原資料はなかったという(甲三六の一・二)。)のであるから、右紛失した趣旨の供述は信用することができず、また、控訴人東が『東日記』を清書した後にその原資料である陣中メモのうち現在保存されていない部分を廃棄したとは、控訴人東自身主張、供述しておらず、かつ、右のとおり相当量の陣中メモがまとまった形で残されていることに照らしても、陣中メモの一部のみ(しかも相当部分)が廃棄されたとは認められない。

そうすると、現在保存されていないもの、すなわち、昭和一三年三月以前の陣中メモは、後述の書簡(乙一一九ないし一二一)を除いては、少なくともまとまった形では作成されていなかったものと推認され、控訴人東も、記述3に係る部分についての陣中メモがあったとは主張、供述しておらず、結局、少なくとも、記述3に係る部分についての陣中メモは、元々作成されていなかったものと認めるほかない。

(四) また、控訴人東は、昭和一二年九月から同一四年二月ころまでの間、戦地から、故郷の友人の佐々木健一にあてて戦況等を詳細に記載した書簡を継続的に郵送しており、これを同人が清書等して保管していた(乙一二及び一三の各一・二、一四、一五、一一九ないし一二三)ところ、この中には、日本軍兵士による中国人に対する殺人行為、残虐行為に触れる部分もあるが、記述3に係る本件事件については、全く触れられていない。さらに、控訴人東は、当時の軍票、日本軍のビラ、中国軍人の遺留品、中国や内地の新聞等を収集し、中国の抗日宣伝文、新聞記事、歌、風景等を筆写、メモ、スケッチし、これらを保存している(乙八〇の一ないし八、一三一ないし一三六の各一・二、丙四ないし一一、一六ないし一八)が、これらの中にも、記述3に関するものは全くない。

(五) 以上によれば、控訴人東は、『東日記』のうち少なくとも記述3に係る部分については、戦場等で日々記載したという陣中メモに基づかずに、かつ、記述3に係る本件事件が起きたとする昭和一二年一二月二一日から三年以上経過してから記載したものと認められ、記述3の裏付けとなる原資料は存在しないものといわざるを得ず、記述3の内容の真実性は、当該記述の内容自体及びこれに対する控訴人東の供述の信用性によって判断するほかない。

これに対し、控訴人東は、日本の敗戦までは『東日記』のような日記を書いていることが官憲に発覚すれば重大な制裁を覚悟しなければならなかったので、虚偽を書いてそのような危険を冒す者はおらず、『東日記』に虚偽を記載する動機、目的は全く考えられないと主張するが、前記のとおり『東日記』自体は帰国後に書かれたものであり、これが官憲に発覚すること自体通常考えられず、また、官憲への発覚による制裁の危険があるというのは、日記を残すことによって軍事上の機密が外部に漏れるのを防ぐためであって、日記の内容が虚偽か否かとは直接関係がなく、したがって、危険を冒してまであえて虚偽を記載する動機に乏しいというのは理由がないから、右主張は失当である。

また、控訴人東は、『東日記』の隊の行動の記載内容が控訴人東の兵籍履歴(乙五七の二)に記載された隊の行動とも一致しており、『東日記』の南京攻略戦、掃討戦の記述は、その過程で発生した南京事件という歴史的事実、客観的情況と符合しているから、『東日記』の正確度は高く、真実を記述していると主張する。

しかしながら、記述3に係る本件事件は、『東日記』のその前後の記載部分との関連性はなく、単独の出来事であるから、『東日記』の他の記載部分が真実に合致しているとしても、そのことから、直ちに記述3も真実であると認めることはできず、『東日記』の隊の行動の記載内容が控訴人東の兵籍履歴に記載された隊の行動と一致していることは、『東日記』の隊の行動についての時間的、場所的記載が正確であることを示すにすぎず、このことから、直ちに『東日記』の隊の行動に関する以外の記載(本件事件も、隊の行動としてされたものでないことは明らかである。)までが正確であるということはできない。また、南京事件について触れている各種文献にも、『東日記』を原典とするもの以外には、本件事件があったことをうかがわせる記載は全くないのであり(乙二四ないし四五、七五ないし七七、八三、八四、一〇四の一ないし七、一〇六、一三七ないし一四四、一四五の一ないし一〇、丙一の一ないし四、二、丁三、一〇、弁論の全趣旨)、南京攻略戦、掃討戦があり、その過程でいわゆる南京事件が発生し、日本軍兵士による中国人の虐殺ということがあったからといって、これと同様に、本件事件も現実に発生したということにはならない。したがって、控訴人東の右主張は、採用することができない。

なお、当事者双方は、各種文献で触れられている南京事件の真否を問題としてもいるが、この点を判断することによって本件事件の真否が判明するものでないことは、以上の説示に照らして明らかであるから、ここでは右の点を判断しない。

2  記述3について

記述3の内容について、控訴人東は、本件事件当時、①南京市内に最高法院があり、その正面玄関前の道路(中山北路)を挟んだ向かい側の道路際に沼が存在していた、②人が入れるだけの郵便袋ないしこれに類する袋が存在していた、③南京城内には壊れていた自動車が放置されていた、④日本軍兵士は中国側使用の手榴弾を持ち歩いていたから、記述3は、当時の客観的状況と合致しており、真実であると主張するが、右①ないし④の各事実が認められても(なお、①については認められる(乙八六の一ないし六、一五四の一・二)が、②についてどのような袋かも特定できず、②ないし④については、その可能性があったといえるにとどまる。)、単に本件行為が実行できる前提条件が存在し得たといえるにすぎず、このことから本件行為が真実実行されたと認めることまでは到底できないから、右主張は失当である。

なお、被控訴人は、『中澤日記』の本件事件当日の記載から、同日被控訴人らが最高法院の前にいたはずがないと主張するが、『中澤日記』(甲三二の一部がその写し)については、原本が行方不明で存在しないというもので、その成立の真正も認められないし、仮に、本件事件当日の隊の行動が甲三二の記載どおりだとしても、同日およそ被控訴人らが最高法院の前にいたはずがないとまで断定できないから、いずれにしても、右主張は採用することができない。

3  記述3の実行可能性について

(一) 記述3には、中山通(中山北路)の最高法院前、すなわち、沼と反対側の位置に壊れた自動車があり(記述自体からこのように解される。)、そこに中国人が連れられて来て、袋の中に入れられ、被控訴人が右自動車から取り出したガソリンをかけて火をつけ、袋が燃え上がったこと、次いで、被控訴人が火玉のように転げ回る袋に付けていた長い紐を持って引きずり回して(引きずり回したことは、記述されていないが、「袋に長い紐をつけて引きずり廻せるやうにした」と記述されており、前後の記述から、このように解される。)沼側に至り、そこで(後記手榴弾の点火後の炸裂時間が短いことから、このように解される。)手榴弾を三発右袋の紐に結び付けて、これに点火し、袋ごと沼の中に放り込んだこと、そうすると、それまで燃えていた袋の火が消えて袋が沈み、これによって水面にできた波紋が静まろうとしているときに手榴弾が水中で炸裂したことが描写されている。

(二)  中山通は、幅員約四〇メートルであり(乙九一、一五九)、また、水中に投げ込んで炸裂する手榴弾は、控訴人らの主張によれば、当時中国軍が使用していたチェコ製等の柄付手榴弾だというのであり、これは、紐を引っ張って点火後、五秒程度で炸裂するものであって、一発でも十分殺傷能力があるものである(甲二四、乙九〇、弁論の全趣旨)。そうすると、記述3によれば、被控訴人は、ガソリンで燃え上がった袋を、これに付けていた紐を持って四〇メートル前後の距離を引きずり回し、次いで、火がついたままの袋の紐に手榴弾を三発結び付けて、点火と同時に火がついたままの袋を沼に放り込んだことになるが、はたして、ガソリンで燃え上がった人間の入った袋を袋や紐が焼損等しないまま、かつ、実行者において火傷の危険を負わずに、四〇メートル前後の距離を引きずり回すことができたか、さらには、実行者においてガソリンで火がついたままの袋の紐に手榴弾を三発(控訴人東は、記述1では二発としているが、二発でも同じである。)も結び付け、かつ、点火後、炸裂するまでに五秒程度しかないのに、時間的余裕をもって燃えている袋を火傷の危険を負わずに、沼の中に放り込むことができたかという点について、極めて疑問があるものといわざるを得ない。ことに、本件行為は、実行者にとっては殺人遊びとして火傷その他身の危険を全く犯さないで実行することができなければ意味がないものであることに照らすと、ガソリンを使った上に手榴弾(しかも複数の)を使って実行したという点において、到底実行可能性があるものとは認めることができない。

(三) これに対し、控訴人東は、手榴弾を袋の紐に結び付け、沼の中に袋を放り込んだ際には、既に下火になっていた可能性があると主張するが、そもそも前述の危険性を除外して物理的な可能性だけを論じても意味がない上、記述3からはそのように認められないから、右主張は失当である。また、控訴人東は、本件行為が危険でなく十分実行可能であるとまで主張するが、右に説示したとおりで、失当というほかない。

控訴人東代理人らが平成九年五月及び同一〇年三月にした実験(乙九六、九七、一五五、一五六、一五七の一・二)は、軽快な半袖シャツとジーンズという服装の青年達が人体の入る大きな麻袋を用いて模擬実験したもので、自ら袋に入りやすい姿勢をとって協力しながら袋に詰め込まれた人間が、袋の中で懸命に身体を動かすことによって、袋自体が地上を動くことを実証し、また、その袋に模擬手榴弾を結び付けて、点火した後五秒以内に所定の低地に手足を使って落とす実験等をしているが、これらは、記述3に描かれた事実から推認される条件(甲本は重い軍装の上、武器を携帯し、中国人も冬の服装であること、中国人は兵士の暴行によって地面にぐったりのびていること、袋の上から兵士達によって小便をかけられたあと、ガソリンをかけられ、火玉のようになったこと、沼の形状、深さ等を知らないまま、点火後数秒で炸裂する手榴弾を結び付けた袋を沼に放り込んだこと)をほとんど満たすことはできず、いずれも記述3に係る本件行為を再現したものとは到底認めることができないから、これらにより、記述3の真実性を裏付けることはできない。控訴人東代理人らは、一五〇CC及び三〇〇CCと比較的少量のガソリンを使用して本件行為の再現実験を行っている(乙八九六、九七)が、その量で実験した根拠、理由が示されておらず、控訴人東が、ガソリンをたった一リットルかけてもパッと燃え上がると原審で供述していたことにも反するものであるところ、これは、早く下火にならないと、袋や紐が焼損してしまうであろうことや、実行者にとって安全に手榴弾を袋の紐に結び付けることができず、かつ、実行者に危険が及ばない状態で袋を沼に放り込むこともできないと考えられるために、作為的にしたものと推認せざるを得ない(なお、乙一六二、一六三及び一六四の各一・二、一六五ないし一六七は、手榴弾を水中で炸裂させた場合の、地上への被弾状況を実験したものにすぎず、本件行為の再現実験ではない。)。

4  控訴人東の供述等について

(一)  控訴人東は、原審において、『東日記』に記載されていることから、記述3のとおりの事実があった(記述3のとおり記憶している。)とするのみで、記述3の記載を離れては、本件事件、本件行為についての記憶がなく、何ら具体的な事実を再現して供述することができなかった(なお、乙四六の陳述書では、「日記が原点であって、記覚が原点ではない」とし、「日記を読み返えして鮮やかに思い出している」としているが、記憶が蘇ったという趣旨であれば、原審における供述に照らし、到底措信し難い。)。特に、記述3によれば、控訴人東は「オイ、そんなにあつければ冷たくしてやらうか」という橋本の声が聞こえるような近距離で橋本の動作を見ているはずなのに、甲本の具体的な動作(例えば、①どこで、どのようにして入手した袋に中国人を詰め、②どのような方法でガソリンを手に入れてそれを運び、③どのようにして火傷の危険を避けながら燃え盛る袋を引きずり回し、また、火玉のように転げ回ったという袋に手榴弾を結び付けたのか、④どのようにして炸裂の危険のある重い袋を沼に「放り込んだ」のか、それらの動作を橋本が一人でやったのか、他の仲間も手伝ったのか)について、控訴人甲本は原審において極めて曖昧かつ抽象的な供述しかできなかった。

これは、本件行為が極めて危険で特異かつ残虐な行為であり、また、手榴弾を三発も使用したというのであるから、一つ間違えば、近くで見物していたという控訴人東(記述3によれば、手榴弾が水中で炸裂したとき、同控訴人は、沼に投げ込まれた袋の「火が消え袋が沈み波紋のうねりが静まらうとしている」場面を目撃できる距離にいたことになる。)にも危険が及ぶと思われることに照らすと、たとえ五〇年を経過しているとはいえ、自ら本件事件、本件行為を題材にして記者会見や講演をしている(甲四、一〇の一・二、乙三の一ないし三、二二、七四の一)のであるから、いかにも不自然かつ不可解であるといわなければならない。したがって、結局、控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、本件行為を目撃していなかった、すなわち、本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない。

(二) また、控訴人東は、原審において、手榴弾を点火してから炸裂するまでの時間を一五秒から二〇秒と供述したが、その後、このような手榴弾が当時実際には存在しないことが分かったため、当審では、右の点について主張及び供述を変更させたが、右原審供述は、本件行為を実行者に危険が及ばないように安全に実行するためには、そのくらいの時間を要すると考えたためにしたものと推認される。

(三) 控訴人東は、原審での尋問後、平成九年八月中旬と当審における尋問直前の同一〇年三月上旬に記憶確認、喚起のために本件事件現場を訪れて、更に記憶がはっきりしたとして、当審においては、控訴人東代理人らの質問に答えて、記述3に記載されていないことまで具体的に供述をしたが、しかし、現場を訪れた際には、既に沼はなく、最高法院があり、中山通があるほかは、周辺の状況は一変してしまっている(乙九一、一四九の一、弁論の全趣旨)のであり、このような現場を訪ねることによって、それ以前には右のとおり全くなかったといってよい記憶が鮮明に蘇えるというのは、極めて不自然であり、原審での右状況と対比しても、控訴人東の当審における右供述は、到底信用することができない。

(四) ことに、控訴人東が、壊れた自動車のある位置について、原審では、「そこの最高法院のそばに自動車がえんこしておりました。」と供述していた(なお、その際、同控訴人は最高法院の前には広い道路があったことも認め、それを前提として述べているのであるから、「最高法院のそば」という表現は、通常は最高法院前の広い道路のうち最高法院の建物側の路上を指すのであって、その道路を挟んだ向い側を意味するものでないことは明らかである。)にもかかわらず、当審になってからは、自動車は最高法院前の道路の向い側にある沼のすぐほとりにあったと主張及び供述を変遷させているのは、記述3の記載(「中山通にある……法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒っていた。道路の向ふ側に沼があった。」という記載からは、中山通を挟んで最高法院の前に自動車があり、道路の向かい側に沼があったこと、その情況を記述者すなわち控訴人東は最高法院側から眺めていることが場面設定として読み取れる。)と明らかに相違するものであるところ、これは、道路を挟んで長い距離をガソリンで燃え上がった人間の入った袋を引きずり回して移動させることが非現実的、実行不可能であり、また、少量のガソリンをかけたのではすぐ下火になってしまうことが分かったので、できるだけ移動距離を短くするため、同控訴人が意図的に自動車の位置を変更させるために供述を変えたものと推認せざるを得ない。

(五) また、控訴人東が、原審の供述とは異なり、ガソリンの量についてせいぜい一合くらいではなかったかと思う、ばっと一度の燃え上がってしばらくして下火になったと当審で供述したのは、控訴人東代理人らのした前記実験内容に合わせたにすぎないものと推認され、記述3の記載(「ガソリンは一度に炎えあがった……袋は地獄の悲鳴をあげて火玉のやうに転げまわった。」)とも符合せず、信用できない。

(六) さらに、本件行為の締めくくりともいうべき、沼への袋の「放り込み」の状況について、控訴人東は、原審において、甲本が単独でしたのか、仲間が手伝ったのかは記憶がないとしながらも、中国人の入った袋を「放り投げたと思います。」と供述し、かつ、そのようにしてもすぐ手榴弾が爆発する恐れはなく、危険ではない旨述べていたが、当審では、「人間が入っているような(重い)袋を担いで投げる必要はない、沼のそばだから、蹴り落とすか、手で落とすかで十分であり、手榴弾に点火してから投げるのは危険なので、放り投げることはない。」と原審とは全く正反対の供述をするに至った。これも、前述したように、右供述後、中国軍の使用するチェコ製等の手榴弾は点火してから炸裂するまで五秒位しかないことが分かり、また、その後に行われた前記実験の結果、人間の入った袋を簡単に「放り投げる」ことが到底困難であることが分かったために、明らかに実験結果に合わせて供述を変更したものと考えられる。しかし、「放り投げる」という動作と、手又は足を使って「落とす」という動作は明らかに異なるものであり、それを近距離で見ていたはずの控訴人東がそのいずれであるかについて全く正反対の供述をしていること自体、極めて不自然であり、これは、取りも直さず、記述3の「放り込み」の事実そのものがなかったためであると推認せざるを得ない。

5 以上のとおりであり、少なくとも、記述3の内容の主要な部分を裏付ける証拠はなく、その記述内容自体に照らして、また、この点についての控訴人東の供述(原審、当審。乙四六、一四六、一七七の陳述記載を含む。)が信用できないことに照らして、これを真実と認めることはできない。

6  『東日記』についての評価

(一) 右の結果、少なくとも『東日記』のうち記述3の主要な部分は真実とは認められないので、控訴人東が実際の体験には基づかないで書いたことになる。これに対して、同控訴人は、この日記の性質上、虚偽を書く必要性や動機は全くないと主張するので、以下、この点について判断する。

本来、個人の書く日記は、自ら体験したこと(その中には他から伝聞したことも含む。)や感じたことを主観に基づいて自由に記述するものであるから、それがすべて第三者から見た客観的な事実と一致するわけではない。また、その日記を書く動機、目的、本人の性格、感受性、想像力、表現力等の違いによって、仮に、同じ場所で同じような体験をしたとしても、人によって日記の内容が異なるのは当然である。同一人が記述する場合でも、毎日の出来事をその日のうちに書く場合と、数日分あるいはそれ以上の分を後日思い出しながら書く場合とでは、おのずと差異が生じることは避けられない。特に、断片的なメモと記憶に基づいて、その数年後に当時の体験を記述する場合には、本人の思い違いや記憶違い等によって、客観的な事実と異なる記述がされる場合のあることは経験則上明らかである。

(二) 『東日記』全五巻は、前述したように、昭和一五年末以降に書かれたもめで、その基本になったという陣中メモなるもののうち昭和一三年三月以前のものは、存在せず、少なくともまとまった形では作成されていなかったものと推認されるので、その時期に該当する『東日記』(第一巻から第三巻の途中まで)は、当時残っていた断片的なメモその他の資料及び戦地から郷里の友人に送ったとする書簡と本人の記憶に基づいて作成されたものと推認される。

これに対して、控訴人東は、右の時期に該当するまとまった形の陣中メモは実在したけれども、昭和六二年に開催された京都の戦争展の際に紛失したと供述するが、それが信用できないことは前述したとおりである。同控訴人が最も重要と思われる原資料の存在について、なぜそのような虚偽の供述をするのか真意は不明であるが、その理由の大きなものとして、『東日記』は右原資料の忠実な再現(清書)であって、何ら脚色や創作は付加されていないことを強調するためと考えられる。

しかし、例えば、右書簡に引用されている昭和一二年九月二二日から同月二七日までの日記分部分(乙一一九)と『東日記』第一巻(乙一〇八)の該当部分(五八丁前後から九七丁前後)とを比較してみると、前者は日付及び時系列に従って戦地での模様や出来事を比較的淡々と記述しているのに対し、後者はそれを基礎としながら、必ずしも日付が明記されておらず、また、同一日内の出来事も時系列にとらわれずに自由に記載され、不要な部分はカットし、特定の場面には、前者には記載されていない兵士達の会話やその場の情景を縦横に折り混ぜながら小説風に読みやすい文章で記述し、そのために分量も前者の倍以上に増えている。

同様のことは、昭和一三年四月初旬から同年五月末までの日記として記載された便箋類のメモ綴り(乙一一八)と『東日記』第四巻(乙一一一)の該当部分についてもいえる。ある部分は清書し、ある部分は大幅にカットする一方で、特に本人にとって重要と思われる事件については、右メモを基礎としながらも、全く別の観点からの記述が展開されている。例えば、昭和一三年五月三日から四日にかけて、戦場で控訴人東が分隊長として指揮をとっていた際に、部下の兵士が銃を誤射し、仲間の兵士を死なせてしまうという事件のあったことが記載されているが、原資料のメモでは、なぜ当該場所で誤射してしまったのかという原因究明や指揮官としての後悔の気持ちが切々と述べられているのに対し、『東日記』では、その場面を基礎としながら、各兵士達の動作、言葉、場面展開を詳細に描く一方で、事故原因について、控訴人東が厳しく中隊長から問い詰められる場面や、犯人とされた兵士の恐怖、苦悩、葛藤の様子とその後の変身の模様等についても、随所に豊富な会話を交えて、あたかも小説のように記述されている。

右によれば、『東日記』は、単なる原資料の再現(清書)ではなく、後日(数年後帰国してから)控訴人東の判断に基づいて編集し、特定の部分については大幅に手を加えるなどして作成されたものであることが明らかである。

このようなスタイルは、『東日記』の全巻に共通するものであり(そのため、控訴人東は、書籍1を出版するに当たって、戦場の日時、場所の特定が自分だけではできず、控訴人青木書店の編集部に作業してもらったことが、同書籍の「まえがき」に述べられている。同書籍中、例えば「四月某日」とあるのは、結局、日付の特定ができなかったことを示している。『東日記』のうち書籍として発表されていない第四巻、第五巻についても、どこからどこまでが一日分の記述なのか必ずしも明らかではなく、日時、場所の特定が困難な部分もある。また、第五巻(乙一一二)の内容は、原資料とされる「雑記帳」に記載された日記帳(乙一一三)とおおむね一致しているが、第四巻は、前述のように必ずしもそうではない。さらに、右の原資料とされるものが、真の意味での原資料といえるかどうかも疑問があることは後述のとおりである。)、他方、随所に同僚兵士や上官のとった具体的な言動及びこれに対する記述者の批評や感情等も赤裸々に描かれている点に大きな特色があり、したがって、日記としては分量も桁外れに多く、これらの点において書籍3に収録された他の兵士達による日記とは大きく異なっている。

すなわち、『東日記』は、全五巻を全体として見ると、一般的な日記に見られるような単なる事実や出来事の記録ではなく、手元の資料や記憶に基づいて、過去を思い出しながら記述した従軍回想記ないし戦記といってよく、文章の表現力の豊かさも加わって、戦地における人間像がなまなましく描かれており、臨場感や迫力に富み、読者を引きつけるものがある。

(三) なお、前記書簡(乙一一九)や書籍3等によれば、控訴人東は戦地において、戦闘の合間にも「懐中手帳」を使用して、日々の出来事や雑感を書いていたことが認められるが、これは、文字通り常時身につけられる小型の手帳であって、右書簡で引用されている日記帳ではないことは記載自体から明らかであり、また、同控訴人が『東日記』の原資料として提出しているメモ綴り(乙一一八等)や日記帳のようなもの(乙一一三等)とは異なるものと考えられる(書籍3に収録されている他の兵士の戦中日記の原本又は原資料として「懐中手帳」類似の小型の手帳が提出されているが、控訴人東は、『東日記』の公表以来、原審及び当審を通じて、右の「懐中手帳」がその後、どうなったのかについては全く言及していない。)。

そうすると、控訴人東が『東日記』の原資料と主張するものが、真の意味での原資料すなわち原始資料といえるのか、むしろ、右の「懐中手帳」こそ原始資料というべきものではないか、そうだとすると、従来、戦地で日々記録したとされる便箋メモや日記帳等の原資料は、その内容や分量の膨大さ当からみて、すべて本当に戦地で日々作成されたものかなどの点についても疑問が生じてくるし、さらに、それらに基づいて作成したという『東日記』全五巻もその分量が膨大なだけではなく、その内容として終戦後の新たな思想や表現らしい部分も含まれていることから見て、すべてが昭和一五年から同一九年にかけて書かれたわけではなく、内容によっては、かなり後年(終戦後)に加筆、変更された部分もあるのではないかなどの疑問も生じる余地がある。しかし、これらについては、『東日記』の真の原資料の内容及びその後の行方について、控訴人東が真実を述べない以上、真相は明らかではない。

いずれにしても、『東日記』のうち、昭和一三年三月以前の部分については、いわば原始資料である「懐中手帳」及びこれをまとめて記載したと思われる日記帳のいずれも現存しないことになる。

(四) ところで、控訴人東は、陳述書その他の前掲各証拠によれば、当時名門といわれた京都府立第二中学校を卒業したあと、家業の都合で立命館大学の予科を中退したが、若いころから映画、演劇にくわしく、「改造」、「新潮」等の雑誌を読み、文章を書くのが好きで、将来は作家か新聞記者を志望していた。前述のように、戦地から郷里の友人の佐々木に戦況等を書いた書簡を送ったのに対し、佐々木から、右の戦況報告の文章を激賞され、当時、従軍作家として有名な火野葦平の作品である「麦と兵隊」等よりも感激が大きかったので、出征兵士の従軍日記として雑誌に発表したいとの返事があったことなどがわざわざ「昭和一四年度日記帳」(乙一一五)の二月八日の記事として詳しく記載されている。その際、控訴人東は、それは「絶対に、絶対に阻止せねばならない。……」としながらも、「もし、そうするとしても、もっともっと訂正せねばならないし、又、あのままでは大した価値はないのだ」と正直に感想を述べていることが注目される。

(五) 昭和六二年七月、控訴人東が京都の戦争展に引き続いて、南京事件の実相を発表する目的で、元第二十聯隊の兵士二名と共に京都峰山町において共同記者会見を行い、それぞれ戦中日記を公表したため、全国に報道されて大きな反響を呼び、昭和五七年の教科書問題以来続いていた南京虐殺事件の真相を巡る論争に新たな材料を提供する形となった。控訴人東に対しても、それを支援する意見や激励する手紙が寄せられる一方で、いやがらせの電話や脅迫的な手紙が送られて来たが、同じ聯隊や中隊に属する戦友達からも、『東日記』の公表によって名誉を傷つけられたとする抗議や、日記の内容が事実と相違するという意見が寄せられ、新聞でも、それらの戦友達の意見も掲載された。

『東日記』の真実性に疑問を呈する元兵士からの質問状に対し、京都の戦争展の実行委員長で、実際に『東日記』の原本を見た上、書籍1の末尾の添え書きや書籍2の推薦文を書いている京都府立大学教授の寿岳章子は、返事の手紙の中で、双方の対立が今後旧兵士問の争いに発展しないように気遣いながらも、「東さんの御著書がいささか現代の手を加えたもので+αがあることはもちろんはじめからわかっていて、私自身の感情としては、もとのままの日記を見たかったというところですが、東さんがせっかくはりきって書きたいと思われたのですから、まあそれもいいでしょうと存じておりました」と述べ、「潤色があることはたしかでしょうが、それがウソに属することか真実をもとにしているか、私にはわからないのです」として、『東日記』が公開される端緒となった京都の戦争展の主催者自身が日記の真実性について率直な感想を述べている(甲三六の一・二)ことが注目される。

(六) 『東日記』の中では、甲本(書籍1では西本)が、昭和一三年四月五日にも、北支の小さな部落において、中国の若者を布団巻きにし、石油をかけて火をつけ、「火だるまが、地獄の叫びをあげる」場面が描かれている。それについて、書籍1は、「西本は、笑いながらよろこんでいる。いつもながら残忍な男である。」と記載されているが、原本である『東日記』第三巻(乙一一〇の一〇六丁)には、「甲本は南京でもこのやうな事をしたが、いつも乍ら惨忍な男である。支那人ばかりが惨忍ではない。此のやうな男も我々の中に居るのだ。教養のない者程、無智な人間程惨酷なのではなからうか。」と記載されている。書籍1では、右原本の記載のうち「甲本は南京でもこのやうな事をしたが」という部分をなぜ削除したのか、記述3の真実性が認められないとする原判決後に出版された書籍1の「新装版」(書籍4)でも、その部分は付加されていないのはなぜかという疑問がある。

しかし、いずれにしても、この日付の記事は、前後の記載に照らすと、いかにも唐突に現れ、また、表現も他の詳細な描写に比べて観念的であり、南京における記述3とよく似た記述であって、にわかに信用できないといわざるを得ない。

(七) 要するに、『東日記』に登場する甲本は、一貫して、勇気はあるが教養がなく、乱暴で残忍な兵士として描かれ、また、同じように一貫して、中隊長は、臆病で決断力に乏しい上官として描かれている。モデル小説としては理解できるが、実在の人物として書いたとすれば、その見方はあまりにも一面的であり、客観性に乏しい(それは日記というものの性格上ある意味ではやむを得ない。)といわなければならない。それに対して、『東日記』で描かれている筆者自身の行動や感情、思想は極めて流動的であり、多彩である。あるときは、中国人を蔑視し、実際に無抵抗の中国人を自ら平気で殺害した事実も記載する一方で、別な場面では、殺されかかった中国人をそっと逃してやったり、人道的に振る舞ったりする自分の行動を巧みに描き、戦争を憎む気持ちを切々と述べたりしている。

ところで、控訴人東は、昭和二一年九月、青年団報に「復員軍人の憤懣」(乙一二四)という文章を投稿したが、その内容は、終戦後、いわゆる革新勢力から、旧軍人達への批判がにわかに高まった風潮に反発して、軍人達の立場を援護し、また、急速に台頭した日本共産党の指導者達を口を極めて批判するとともに、天皇制に対する熱烈な賛美に満ちており、そこには、戦前に書いたという『東日記』に散見される人道主義的な記述や論調は全く影をひそめている。そうすると、控訴人東が青年時代にいわゆる大正デモクラシーの思想等を学び、その影響を多分に受けていたとしても、『東日記』における右の記述や論調は、果たして、すべて戦前に書かれたものかどうかについても疑問があり、その一部は戦後に加筆された可能性もあることは前述したとおりである。

(八) 右の認定によれば、前記原始資料から原資料等を経て『東日記』が作成される過程において、事実に基づかない記載(脚色、創作等)が加わった可能性を否定することはできず、したがって、『東日記』はすべて実際の体験に基づく陣中メモ等を後日(昭和一五年から同一九年三月までの間に)正確に記録したものであるとの控訴人東の供述は全面的には採用し難いといわざるを得ない。

四  争点4(相当性)について

1 名誉毀損の対象とされた行為について争点2の公共性、公益性が認められる場合に、摘示された事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信じるについて相当の理由があるときには、右行為には故意又は過失がなく、不法行為は成立しないと解されるので、以下に、右相当性について判断する。

2  書籍3の出版に至る経過について、証拠(乙一の一ないし四、二の一・二、三の一ないし三、四六、五八、六六、丙二、一二の一ないし三、一四、一五、丁三、四の一ないし三、五、六の一ないし九、証人桜井香、控訴人下里、控訴人東(原審))によれば、次の事実が認められる。

(一) 控訴人東は、昭和五七年ころ、福知山聯隊史編集委員会の編集に係る「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」に『東日記』の一部(記述3に当たる部分は含まれていない。)を掲載し、同六一年ころ、京都府の丹後町婦人会の依頼により、同婦人会が戦中戦後の体験談等をまとめて作成した小冊子「平和へのねがい」に『東日記』の一部(同)を投稿し、同六二年春ころ、右小冊子を目にした京都の戦争展の実行委員会事務局長吉田保の求めにより、右戦争展への展示のため『東日記』を貸与した。

(二) 控訴人下里は、昭和六二年三月ころ、吉田から受け取った『東日記』を含む三名の福知山聯隊所属下級兵士の日記類等の写しを読み、同年五月下旬、吉田と共に控訴人東宅を訪ね、『東日記』の原本、控訴人東が保存していた陣中メモその他前記三1(四)の資料を閲覧した。

控訴人東は、控訴人下里の説得等により、同年七月六日、記述3の内容を含む『東日記』を公表し、記述3の内容にも触れて記者会見に応じた。

(三) 控訴人下里は、昭和六二年五月下旬以降、南京事件に関する資料の収集を開始し、『東日記』のほか、増田六助上等兵の日誌及び手記、上羽武一郎衛生兵の陣中メモ及び日記、他の複数の下級兵士の日誌、中島今朝吾第十六師団長(中将)の日記、森英生第三中隊長(中尉)の回想記、第二十聯隊第四中隊の「陣中日誌」(戦闘詳報)、「福知山歩兵第二十聯隊史」と題する書籍、「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」と題する書籍等を集め、これらを基に、歩兵第二十聯隊に関して、昭和六十二年八月十四日から同年十月一日まで、日本共産党中央機関誌である「赤旗」誌上に「かくされた聯隊史」と題する記載を連載した。その際、控訴人下里は、『東日記』を引用することについて控訴人東から承諾を得ており、記述2は、同年九月一三日付け「赤旗」に掲載された。そして、控訴人下里は、これに若干の加筆訂正をして書籍2にまとめ(京都の戦争展実行委員会及び日本機関紙協会京滋地方本部発行)、同年一二月八日、控訴人青木書店から発売された。

『東日記』のほか、右増田、上羽、他の下級兵士らの日記等は、南京攻略戦、掃討戦の過程で、敗残兵、投降兵の銃殺等日本軍兵士により中国人の殺害行為が行われたことを記録しており、控訴人下里は、これらが歴史的資料として価値のあるものと判断した。

控訴人下里が『東日記』の基になった陣中メモを検討した際、記述3に係る部分の陣中メモは存在しなかった。また、控訴人下里は、控訴人東に対する取材において、『東日記』の記述3の内容についても尋ねたが、控訴人東は、日記に記載されている以上のことは分からないという話であった。

(四) 控訴人青木書店編集部桜井香(書籍1ないし3発行時、編集部次長)は、それまでに南京事件関係の書籍の出版を担当したことがあり、「戦闘詳報」を閲読しており、右「赤旗」連載中の「隠された聯隊史」を読んで『東日記』の存在を知り、その写しを控訴人下里から入手し、昭和六二年初秋ころ、控訴人東宅を訪れ、『東日記』の原本、前記(二)の陣中メモその他の資料を閲覧し、控訴人東に対して書籍1を執筆することを進めた。桜井は、控訴人東の依頼により、戦場の日時、場所等を特定する作業を行い、南京事件関係各資料を検討し、『東日記』の記載の一部が『中島第十六師団長日記』の記載等と符合していることなどを確認したほか、郵政省所轄の博物館の資料室に赴き、大人を入れられる大きさの郵便袋があることなどを確認した(控訴人下里も同様の調査をした。)。そして、書籍1は、株式会社機関紙共同出版(現・株式会社つむぎ出版)の企画・製作により、同年一二月八日、控訴人青木書店から発行された。

(五) 控訴人下里は、機関紙共同出版の企画により、前記(三)の各資料に、歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊員であった北山与の日記、同聯隊戦銃隊員であった牧原信夫上等兵の日記等の資料を加えて、井口和起及び木坂順一郎とともに、南京事件又は日中戦争の研究のための資料として書籍3を編集し(『東日記』については控訴人下里が担当した。)、書籍3は、機関紙共同出版の製作により、平成元年一二月一五日、控訴人青木書店から発行された。その際、控訴人下里らは、控訴人東から、『東日記』を書籍3に収録することについて了解を得ていた。

3  以上の認定事実によれば、控訴人下里らは、『東日記』がその一部について原資料というべき陣中メモがあり、また、その南京攻略戦、掃討戦についての記載の一部(記述3を除く。)が他の資料にも符合するものであったことから、その歴史的資料としての価値が高いと判断して、書籍3の編集及び発行に至ったものであるところ、記述3の内容、特に、被控訴人が中国人を袋に詰めて、ガソリンをかけて点火し、手榴弾を結び付けて沼に放り込んだという残忍な殺人行為をしたことについて、前記のとおり、明らかに不自然な描写があるにもかかわらず、郵便袋の大きさの点を検討した程度であり、控訴人東から日記に記載された以上のことは分らないと言われただけで、その他には、その裏付けを確認しようとした形跡を全くうかがうことができない。

特に、『東日記』及び陣中メモ、日記帳、佐々木に送られたという書簡等をよく検討すれば、原始資料である「懐中手帳」、それをまとめた日記帳等の原資料を経て『東日記』が作成されたことが明らかであるから、当然、それらの原資料のその後の行方について控訴人東を具体的に問いただし、紛失したとすれば、その時期、場所を尋ね、京都の戦争展の関係者にもそれを確認し、その結果、それらの原資料が実在しないことが分かった場合には、現存する原資料と『東日記』をつぶさに比較対照して、後者に脚色や創作等が加わった可能性がないかどうかを冷静に検討すべきであったといわなければならない。日記の分量が他の戦中日記に比べて膨大であり、また、日記の作成者が当時才能豊かな文学青年であって、出征前から戦中日記を書くことに並々ならぬ意欲を示していたことがうかがわれるだけに、かえって注意する必要があり、少なくとも、実名で公表する部分については、一層慎重な判断をする必要があったというべきである。とりわけ、控訴人東が書籍1について、一定の配慮から、被控訴人の実名の使用を避けて書籍1を公刊しているのを知りながら、控訴人下里はあえて書籍3において実名の使用に踏み切ったのであるから、編集者としての責任は免れないといわなければならない。

右によれば、控訴人下里らにおいて、記述3の内容を真実と信じたことについては相当な理由があったものということはできず、控訴人下里らには、記述3に係る書籍3を編集及び発行したことにより被控訴人の名誉を毀損したことについて過失があるというべきである。

控訴人下里らの主張中には、歴史的資料である書籍3の性格に鑑み、記述3の内容の真実性を検討するまでもなく、これを公にすることが容認されるかのように主張する部分がみられるが、歴史、ジャーナリズムいずれの分野の記述においても、事実の確認が前提となるべきことは論をまたず、歴史的資料であるがために提供された資料の内容を検討することなく出版の対象とすることが容認されるものでないことは多言を要しないから、右主張は失当である。書籍3は、いわゆる南京事件の実態を明らかにするために、南京攻略戦、掃討戦に参加した元兵士達の戦中日記等を翻刻・収録し、発表したものであり、その歴史資料的価値は少なくないと考えられるが、しかし、同時に、それによって、名誉を棄損される者がいないかどうかについても、事前に十分な検討をすべきことは当然である。

4  したがって、控訴人下里は、書籍3の編集において過失があり、これが発行されて被控訴人の名誉を毀損したことについて、不法行為責任を負う。

五  争点5(控訴人東の責任)について

前記四2の認定事実によれば、控訴人東は、控訴人下里らから依頼されて、記述3の内容を含む『東日記』を提供し、かつ、これを引用して公刊すること及び書籍3に収録することを了解していたもので、記述3の内容は「甲本」の名称を含めて控訴人東の提供した情報に外ならず、その際「甲本」という実名のまま掲載されるであろうことも当然に予測することができたと認められるところ、控訴人東において、これに対して異議を唱えた形跡は全くうかがえないから、記述3が「甲本」という実名のまま書籍3に掲載され、発行されることを容認していたと推認せざるを得ない。そうすると、控訴人東は、被控訴人の名誉を毀損する記述3の内容の情報を提供したことについて、不法行為責任を負う。

六  争点6(控訴人青木書店の責任)について

控訴人青木書店は、書籍3について発行を担当し、前記四2(四)のとおり、控訴人青木書店担当者において、その記述3に係る記載内容についての調査もしたことが認められるが、それが不十分であったことは前述したとおりであるから、書籍3を発行したことによって被控訴人の名誉を毀損したことについて、過失による不法行為責任を負う。

七  争点7(損害額及び名誉回復処分)について

被控訴人は、記述3を含む書籍3が出版されることにより、記述3の内容のような残虐な行為をしたものとして公表され、社会的評価を低下させられて名誉を毀損され、精神的苦痛を被ったと認められる。

そして、書籍3は、歴史的資料として編集及び発行されたもので、学術研究書的色彩が強く、発行部数が限られると思料されること、約六〇年前の戦場での出来事とされていること、その他本件にあらわれた諸般の事情を総合すると、被控訴人の右の精神的苦痛を慰謝するための金額としては五〇万円が相当である。しかしながら、書籍3の右性格等に鑑み、右慰謝料の支払のほかに、被控訴人主張の謝罪広告の掲載によって名誉の回復を図る措置をとる必要があるとまでは認めることができない。

八  結論

以上のとおりで、被控訴人の原審請求は、控訴人らに対し、各自、慰謝料五〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成五年五月一日(附帯請求の始期につき、当審で請求減縮)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、その余は、いずれも理由がない。

よって、被控訴人の原審請求を右の限度で認容し、その余を棄却した原判決(請求減縮後のもの)は相当であり、本件各控訴及び平成九年(ネ)第四一七号事件附帯控訴はいずれも理由がないからこれらを棄却し、被控訴人の同第二七八八号事件附帯控訴(当審新請求)も理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・奥山興悦、裁判官・杉山正己、裁判官・佐藤陽一)

別紙一 謝罪広告案〈省略〉

別紙二

1 どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本は惨酷な一つの提案を出した。

つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。

泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。

心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。

西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。

袋の紐を持っていた西本は、「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。

水がごぼっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。

こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。

次の時にはこのようなことは少しの記憶も残さず、鼻唄を唄って歩いている一隊であった。(書籍1百六頁から百八頁まで)

2 東史郎上等兵の陣中手記は、この時に目撃した一事件を次のように書いている。

「法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒っていた。道路の向う側に沼があった。何処からか一人の支那人が引っぱられて来た」

「戦友達は、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、甲本は残酷な一つの提案を出した。つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである」

「泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのように蹴られ、野菜のように小便をかけられた」

「ぐしゃりとつぶれた自動車の中から、ガソリンを出した甲本は、袋にぶっかけ、袋の長い紐をつけて引きずり廻せるようにした」

「心ある者は眉をひそめて、此の惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。甲本は火をつけた。ガソリンは一度に炎えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、渾身の力で袋が飛びあがった。袋は自から飛びあがり、自から転げた」

「戦友のある者達は、此の惨虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ火玉のように転げまわった」

手榴弾を二発紐に結びつけ

「袋の紐を持っていた甲本は――オイ、そんなにあつければ冷たくしてやろうか――と言うと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。」。

東上等兵はこのあと、「次の時には此のような事は少しの記憶も残さず、鼻唄を唄って歩いている一隊であった」と、自分たちのことを書いている。(書籍2百頁から百一頁)

3 中山通にある最高法院は灰色に塗った大きな司法省である。法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒っていた。道路の向ふ側に沼があった。何処からか一人の支那人が引っぱられて来た。戦友達は、仔犬をつかまえた子供のやうに彼をなぶっていたが、甲本は惨酷な一ツの提案を出した。つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけやうといふのである。泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり結[締]められた。彼は袋の中で暴れ泣き怒鳴った。袋はフットボールのやうに蹴られ、野菜のやうに小便をかけられた。ぐしゃりつぶれた自動車の中からガソリンを出した甲本は袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり廻せるやうにした。

心ある者は眉をひそめて此の惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。

甲本は火をつけた。ガソリンは一度に炎えあがった。と思ふと、袋の中で言ひ知れぬ恐怖のわめきがあがって、渾身の力で袋が飛びあがった。袋は身づから飛びあがり身づから転げた。

戦友のある者達は、此の残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげて火玉のやうにころげまわった。袋の紐を持っていた甲本は、――オイ、そんなにあつければ冷めたくしてやらうか――と言ふと、手榴弾を三発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み波紋のうねりが静まらうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。

水がごぼっと盛りあが[っ]て静まり遊びが終った。こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ甲本の惨忍性に私達があきれただけである。次の時間には此のやうな事は少しの記覚[憶]も残さず鼻唄を唄って歩いている一隊であった。(書籍3三百五頁)

4 「どこからか連れてきた中国人を殴り、けり、背負い投げを食らわせ、郵便袋に閉じ込めてガソリンを掛け火を付けた。袋ごと跳び上がって転げていくのを、皆が面白がって見ていた。“殺人遊び”だった」

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